西暦 |
和暦 |
年齢 |
事 項 |
1883 |
明治16 |
0 |
12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現小城市三日月町)字遠江に、父清人、母クスの三男として生まれる。父50歳、母43歳。 |
1889 |
明治22 |
5 |
4月、三日月村晩成小学校に入学。 |
1897 |
明治30 |
13 |
3月、同小学校卒業。4月、佐賀県立佐賀中学校に入学。 |
1898 |
明治31 |
14 |
父に死別する。 |
1902 |
明治35 |
18 |
3月、県立佐賀中学校卒業。9月、第五高等学校第三部に入学。 |
1903 |
明治36 |
19 |
3月、同校同部退学。9月、第五高等学校第一部に入学。 |
1905 |
明治38 |
21 |
9月、特待生となる。12月より病気休学し、鹿児島に転地する。 |
1907 |
明治40 |
23 |
7月、第五高等学校第一部文科卒業。9月、京都帝国大学文科大学哲学科に入学。社会学を専攻。 |
1910 |
明治43 |
26 |
7月、京都帝国大学文科大学卒業。大学院に入学。新詩社に入社。 |
1912 |
明治45 |
28 |
この年から、小川郷太郎博士の指導のもとに、カーネギー平和財団の補助により、日本徴兵制度の経済的影響の研究に従事。 |
1913 |
大正2 |
29 |
7月、師団所在都市の調査のために、九州、四国、北海道に旅行。12月、『分業論』を出版。 |
1914 |
大正3 |
30 |
9月、京都帝国大学法科大学講師。フランス経済書を購読。 |
1915 |
大正4 |
31 |
2月26日、佐賀県神埼町の神埼実業銀行頭取大石太郎三女きぬと結婚。 |
1916 |
大正5 |
32 |
この年より『社会学原理』の執筆に没頭する。 |
1917 |
大正6 |
33 |
赤痢を病み、府立病院で約1ヶ月静養する。 |
1918 |
大正7 |
34 |
歌集「ふるさと」出版記念祝賀会。兄清俊を失う。 |
1919 |
大正8 |
35 |
2月、『社会学原理』公刊。6月、広島高等師範学校教授。 |
1920 |
大正9 |
36 |
10月、長女秋子生まれる。当時の講義案は、のちに『社会学概論』として刊行される。秋、胃を病む。 |
1921 |
大正10 |
37 |
2月、胃病で約1ヶ月入院。6月、東京商科大学教授。12月、文学博士の学位を受ける。 |
1922 |
大正11 |
38 |
剰余価値について、河上肇博士の所説を批判する。同博士およびその他のマルクス主義者との論争は、その後10年間にわたる。11月、母に死別する。 |
1923 |
大正12 |
39 |
胃病悪化し、慢性胃潰瘍となり、11月より病床に伏す。 |
1924 |
大正13 |
40 |
2月、東京商科大学を辞任して、帰郷静養。4月、長男保美出生。25日にして死別する。 |
1925 |
大正14 |
41 |
5月、九州帝国大学法文学部教授。10月、次女さ江子出生する。当時、郷里三日月村より通勤する。ひのくにの中島哀浪に師事する。 |
1926 |
大正15 |
42 |
4月より経済学原論を講義する。胃を損ね10月より半年休講する。 |
1927 |
昭和2 |
43 |
4月より経済学原論の講義を続行する。 |
1928 |
昭和3 |
44 |
三女ちづ子生まれる。 |
1929 |
昭和4 |
45 |
4月、京都帝国大学教授兼任となる。経済原論講座を担当する。次女さ江子を失う。10月より半年帰郷して九大で講義。 |
1930 |
昭和5 |
46 |
11月、京都帝国大学専任教授。九州帝国大学教授を兼任。 |
1931 |
昭和6 |
47 |
マルクス主義批判の講演旅行は、この年から翌年におよぶ。 |
1933 |
昭和8 |
49 |
日本学術振興会常置委員になり、2年にして辞める。 |
1934 |
昭和9 |
50 |
12月、九州帝国大学の兼任を免ぜられる。 |
1936 |
昭和11 |
52 |
家族郷里より上京、塔の段下町に生涯の住居。7月、胃疾にて京都帝国大学付属病院に入院、8月に退院して、10月、三朝温泉にて静養する。 |
1937 |
昭和12 |
53 |
年末に、大同学院での講義のため新京に赴く。龍谷大学での社会学の講義。 |
1938 |
昭和13 |
54 |
2月、京都帝国大学経済学部長になる。高等文官試験の経済学を担当。 |
1939 |
昭和14 |
55 |
2月、経済学部長を免ぜられる。9月、東京帝国大学経済学部で勢力説の概要を講演する。 |
1940 |
昭和15 |
56 |
1月、日本学術振興会常任委員となる。12月、胃疾のため京都帝国大学付属病院に入院、1ヶ月で退院する。 |
1943 |
昭和18 |
59 |
1月、民族研究所が設立され、その所長を兼任する。2月上旬、東北帝国大学法文学部で民族論を講義。 |
1944 |
昭和19 |
60 |
3月、京都帝国大学を退職し、9月末まで同経済学部講師を嘱託。民族研究所長専任。高田博士還暦論文集が刊行。 |
1945 |
昭和20 |
61 |
終戦により、10月に民族研究所廃止、廃官となる。恩師米田博士逝去。 |
1946 |
昭和21 |
62 |
3月、京都帝国大学名誉教授。12月、京都大学経済学部の教員適格審査委員会によって、教員不適格の判定を受ける。公職と教壇から離れて、京都と郷里での晴耕雨読の研究生活に入る。自作農耕と研究著述の生活。 |
1947 |
昭和22 |
63 |
この年だけで8冊の著述。 |
1948 |
昭和23 |
64 |
この年だけで8冊の著述。 |
1949 |
昭和24 |
65 |
一万田総裁下、日銀後援で貯蓄について講演行脚。 |
1951 |
昭和26 |
67 |
教職不適格の判定が、原審破棄で取り消される。教壇に復帰し、8月、大阪大学法経学部教授となる。 |
1953 |
昭和28 |
69 |
6月、大阪大学政経学部長。8月、同大学経済学部長。 |
1954 |
昭和29 |
70 |
古希記念論文集、『社会学の諸問題』が刊行される。 |
1955 |
昭和30 |
71 |
7月、大阪大学を退職。8月、大阪府立大学経済学部教授。11月、大阪大学名誉教授。 |
1957 |
昭和32 |
73 |
10月、大阪府立大学経済学部長。 |
1959 |
昭和34 |
75 |
4月より約1年間、大阪大学付属社会経済研究室にて、「賃金問題研究会」を開く。10月大阪府立大学経済学部長を退任。 |
1963 |
昭和38 |
79 |
宮中御歌会の召人の栄に浴す。3月、大阪府立大学経済学部教授を退職。4月、同大学名誉教授。同月、龍谷大学経済学部教授となる。 |
1964 |
昭和39 |
80 |
11月3日、旭日重光賞を授与され、社会学の理論的体系確立の貢献者として文化功労者として顕彰される。 |
1965 |
昭和40 |
81 |
4月、龍谷大学経済学部教授を退職。 |
1972 |
昭和47 |
88 |
2月2日、老衰のため永眠する。正三位勲一等に叙せられ瑞宝章を授与。 |
1974 |
昭和49 |
― |
3月2日、佐賀県小城郡三日月町字遠江の高田家墓地に納骨される。 |