学者として

貧しい人をなくそうと燃えた青春時代

三日月町の風景
高田保馬少年が社会学や経済学を志すもとを育てた遠江地方の現在

 1902年(明治35年)9月、保馬は第五高等学校(熊本)に入学しました。尊敬する25歳年上の兄の勧めに従い「医学」の道を志しましたが、自分はやはり自然科学方面でなく社会の方の勉強をするのが向いているのではないかと思う気持ちが日増しに強くなり、3月には退学願いを出し郷里遠江に帰りました。

 1903年(明治36年)9月、同じ第五高等学校の第一部(文科)に試験を受けて再入学しました。保馬は中学5年の時貧乏をなんとかしなければという論文を書き、その後社会主義への興味を持ちましたが、これが五高時代になり社会主義の本への興味になりました。保馬は友人たちが民主主義思想の本を読んでいた1年半ぐらいの間に、たくさんの社会主義の本を読みふけったので、彼の社会思想は驚くほど成長しました。またトルストイの「我が宗教」の訳本を夢中になって読みその人道主義思想にもひきつけられ、トルストイをうやまい是非会ってみたいと念願していたほどでした。

 明治37年、2年生になった保馬は社会主義に興味をもった学生がつくった「黒潮会」に入会しました。ここで刎頚の友滝正雄君と出会い、二人は将来お互いに助け合いながら進もうと誓い合い、二人三脚で人生を歩くことになります。

 保馬はこの頃第五高等学校の校友会雑誌「龍南」に「社会主義と詩人」と題した論文を発表しました。この論文は貧富のへだたりはどうしてできるか、これは“資本主義の矛盾である”ということに力点をおいたものです。これはこの頃の全国の高等学校の校友会雑誌で社会主義を論じた初めての論文でした。

 1906年(明治39年)転地療養から熊本に帰り、2度目の3年生となりました。これで5年間在学し、明治40年7月1日卒業式を迎えます。高田保馬は英文科卒業生首席で卒業しました。


生き方を方向づけた大学時代

恩師米田庄太郎博士と共に
大正15年 恩師米田庄太郎博士と共に

 1907年(明治40年)9月、京都帝国大学文科大学に入学。この頃幸徳秋水の「社会学神髄」を読んでこれに引きつけられ、何回も読んでその中の文章を暗記するほどこの本に魅せられていました。そして、生涯の師米田庄太郎博士との運命的な出会いを果たします。今まで社会主義は無条件に正しいと信じていた保馬は、「社会学は社会主義とはまったく違うものだ」と恩師米田博士から厳しくさとされ、社会学を研究することになりました。

 大学1年の時米田博士からキディングスの研究「社会学原理」の講義を受け、またタルドの「模倣の法則」をテキストにして学びました。2年の時は、イタリア語のグロッパリの原書を教科書として「社会学綱要」を講読して教えを受けました。イタリア語を全然学んだことのない保馬は、これをよい機会にイタリア語を勉強してやろうと積極的に取組み、グロッパリの原書を見事に翻訳して勉強したのです。

 明治40年9月、大学入学のための1番目の下宿は大学裏門の近くでしたが、3年のときは論文を書かなければならないということで、郊外の静かな下宿を見つけ、ここで卒業論文「分業論」を書きました。

 1910年(明治43年)保馬は大学院に入りました。大学院になると、米田博士の研究室を訪れてそこで指示された書物を読み、その本の要点、著者の考え、それに対する自分の意見感想などを述べ、そのあと先生の指導・意見の交換をすることも多くなりました。この時期には、米田博士の家にまで足を伸ばし、博士の書斎、座敷におじゃまして教えを受けることも多くなりました。博士の書斎には社会学の本はもちろん経済学の本もたくさん並んでおり、これを見て経済学にも秀でておられる博士の深い学識に接していた保馬は、自分も博士のように経済学をやろうと心を固めたようです。


真理の追究者としての壮年時代

昭和4年2月、九大教授時代
昭和4年2月 九大教授時代

 1914年(大正3年)保馬の第一の就職先は京都大学法科大学の講師、それも社会学ではなく経済学の講師でした。保馬は法科大学の研究室で経済学を教えながら、大正5年頃からは今まで研究してきた社会学のまとめとして社会学原理の執筆のことに熱中しました。こうして連日連夜の努力の結果、1919年(大正8年)2月、35歳の若さで大著「社会学原理」を出版することができたのです。

 社会学原理の出版後まもなく広島高等師範学校(現広島大学)の教授となり、社会学と経済学を担当しましたが、大正10年には東京商科大学(現一橋大学)教授に招かれ、社会学と経済学史を担当することになりました。この年学位請求論文は「社会結果論」を提出し、これで京都大学文学部論文博士第1号に合格、文学博士の学位を受けました。

 大正11年、高田博士の母クスさんが逝去されました。この悲しみを学問への勉強努力によってまぎらわそうとするかのように、この年は著作活動も盛んで「国家と社会」をはじめ「社会学概論」など高田博士の自信作として名著といわれる本が出版されました。

 1922年(大正11年)高田博士は雑誌解放に「河上博士の剰余価値論」という論文を発表しました。これは河上博士が大正6年に発表した当時における博士会心の論文でしたが、これに対して高田博士は独自の社会学的立場からマルクス史観を真正面から批判しました。このあと約15年にわたって河上博士ほかマルクス主義一流の学者たちと雑誌をかえ、主題をかえて論争を続けられました。

 高田保馬博士はすでに明治42年には、米田博士から唯物史観の講義を聞き資本論第1巻を読み、その他マルクスについて書いたマルクス批判、マルクス人口論など多くの本も読みマルキシズムの大凡のことは知っていました。それは大正3年にはもう京都法学雑誌に「資本家的集積説の研究」を発表、これはマルクス研究学説のわが国最初の学術論文であったことが証明しています。

 さきにのべたように高田保馬博士は1922年東京商科大学教授の頃、河上博士の「剰余価値論」を批評発表しましたが、その後九大教授となり「経済学新講」の著述と閉講してマルクス経済への批判を続けられ、この方面の著書も相次いで刊行しました。

 河上博士との論争の15年は利潤と利子との問題でした。最初の論文「経済学研究」は利子論集でしたが、次に続く利子論研究が5冊あります。

 昭和10年には胃の痛みをおして研究講義を続け、「民族の問題」も書かれました。しかし昭和11年には遂に胃痛のため入院手術をし、その後三朝温泉で療養しながら「利子論の研究」を書き上げられたのです。これは利子論における名著であり、利子に関する研究を昭和6年ごろより始められ、11年からはケインズの利子論批判に精力的に10年間も考察を進められたのです。

 大正13年、持病の胃の病が悪くなってしまい、やむなく東京商大を辞任して郷里三日月に帰り静養することにしました。三日月村遠江で療養につとめること6ヶ月、体調も回復に向かったので九州帝国大学法文学部教授となり経済学原理を担当、社会学も兼ねて講義することになりました。

 この頃三日月村から九州大学まで毎日講義に通っていましたが、まだ体調が十分に回復していない中もうひとつの苦労は大学での講義の原稿作りでした。高田博士は経済学において精魂を打ちこむ基礎問題は何か それは価格の理論であろうと考え、これについて“何か自分のものをうちたてたい”といろいろ考えた末、それは“勢力が価格を支配する”というみかたに到達したのです。(勢力論)この九州大学での講義ノートをまとめ本にしたものが「経済学新講全五巻」2,100ページで、これはその後京都大学教授の昭和4年から7ヵ年の間に刊行することができました。

 高田博士44歳から49歳までの最も脂ののりきった時に、当時世界における経済学上の最高の体系をうち立てられ、これは大学の経済学の教科書として採用されるようになり、また高等文官試験委員の著書としてエリート受験者たちを悩ませましたが、高田博士の名を一層高くすることにもなりました。


教職追放と、その後の晴耕雨読の生活

昭和8年 京都大学教授時代
昭和8年 京大教授時代

 1944年(昭和19年)の末の誕生日に高田博士は60歳になり京都帝国大学を定年退職されました。翌20年8月、15年間つづいた戦争も敗戦で終わり、翌21年には京都大学の名誉教授になられました。しかし、同年12月には教職不適格ということで教職をやめさせられることになってしまいました。その理由は、高田博士が太平洋戦争・日中戦争を肯定したこと。その根拠は先生の民族主義、ことに東亜民族主義が悪いという、いわゆる高田博士の民族主義が大東亜戦を基礎づけるため教職不適格であるという理由でした。これに対し高田博士は、「民族主義というとき、私は政策の方針又は民族行動の規範としての意味しか使わなかった。」と「東亜民族論」の第一章に述べられています。高田博士の民族主義は、民族が決して他民族を手段にするようなことなく、対等、相互尊重することです。高田博士の信念は、「戦争は民族国家の拡張欲によって自然におこるもので、経済的利益とか宗教のちがいとかいうのは表面の原因であってつくられたものである。即ち常に相手を尊重することをしないで、武力によって自分たちだけ大きくなろうとするので戦争になる。」ということです。

 この高田博士の教職追放の結果は、1951年(昭和26年)、これは最初から何もなかった(原審破棄)ということで取り消されることになりました。

 昭和21年暮れから昭和26年6月までの高田博士の追放4年半の時期の著作活動は今までにも比べられないほど盛んでした。さらにこの4年半に24冊もの本を著されましたが、それが小説とは違う学術書である点がいかに巨人であったかを思わせます。まず「略説経済学原理」ですが、これは経済学で今までやりかけた問題について教科書風の1冊の本にまとめたものです。ついで「世界社会論」は戦後初めて新しく書いた高田博士の魂を打ち込んだもので、世界は1つの社会になる方向に進みつつあるという考え方によって、その究極の世界はこうなるだろうと、今までに例を見ない本です。続いて「経済の勢力理論」「経済原論」「新利子論」「洛北雑記」「社会学の根本問題」「インフレーションの解明」「社会歌雑記」の7冊が出版され全9冊もの本が1年間に刊行されたのです。

 その後昭和25年からは日本の若い学徒のため経済学の何であるかを知らせようと、経済学入門の3部作、経済学説の展開、小経済学、経済の構造など次々に著作されました。


高田博士、再び教壇へ

昭和29年、古稀記念写真(泉涌寺山内新善光寺)
古稀記念写真

 昭和26年6月中旬、高田博士は教職不適格の判定を取り消すという決定の公式文書を受け取りました。その年の8月大阪大学法経学部の教授として教職に復帰し、青山学院大学も兼任しました。大阪大学経済学部が創設され、その中に当時とても難しかった附属社会経済研究室が高田博士の特別の努力により設置されました。ここに高田博士を中心とした近代経済学の俊秀が集まり、大阪大学は日本における近代経済学の牙城となって経済学の発展に大きく貢献することになりました。


文化功労者として顕彰

三日月町での講演(昭和33年4月)
三日月町で講演

 1964年(昭和39年)、高田博士は、わが国の社会学の発展に貢献した功績により、“文化功労者”として顕彰されました。90年近い生涯を通して博士の優れた能力は一貫した見識のもとに理論社会学に注がれました。「社会学原理」(約1,100ページ)「経済学新講」(約2,100ページ)という膨大な書は、社会学と経済学それぞれの学問の最先端を切り開き、両部門で時代の頂点を極めた日本社会学の「武蔵と大和」であると言っても過言ではありません。


高田博士、眠られる

晩年の高田保馬先生(昭和42年ごろ)
晩年の高田保馬先生

 1963年(昭和38年)、大阪府立大学に8ヵ年の勤務を終えて退職され、同大学の名誉教授となられましたが、そのあと龍谷大学経済学部教授となり経済原論を担当、2年間勤務の後退職されました。81歳まで現役教授として学問ひとすじに生きられた人生でした。その後、体調の回復につとめられていましたが、1972年(昭和47年)2月2日眠るがごとく彼岸へ旅立たれました。88年に亘る長い生涯を社会学に捧げた偉大な人間の死を悲しみ、人々はみぞれ降る寒さの中長い行列をつくって焼香し別れを惜しみました。


三日月町ドゥイングの玄関前の高田博士像
晩年の高田保馬先生

 三日月町ドゥイングの玄関前の高田博士像は、いつも町民にやさしく語りかけています。

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