歌人として

歌碑
ドゥイング三日月玄関前
高田保馬先生の詩

高田保馬博士が詩やうたを作るようになったのは中学1年(13歳)の頃。 しかし本格的に詩人・歌人としての道に入るようになったのは、下村湖人と の出会いからでした。

 その後京都帝国大学に入学。ある日同宿の学生安井定次郎氏から 「君、そんなに歌が好きなら」 と勧められ、有名な歌人与謝野鉄幹・晶子主宰の新詩社へ入社したのが 1920年(明治43年)の秋でした。明治44年春まで数回新詩社に歌稿を 送って教えを受けることが出来ましたが、与謝野両先生がヨーロッパへ行 かれたので教えを受けることが出来なくなり、それからは時々の感想の歌 を記録しておく程度になってしまいました。

 高田保馬博士にとってもう一人の歌の師は、中学校の同級生であるが、 クラスが違ったので話したこともなかった中島哀浪氏でした。中島哀浪氏 は早稲田大学を出て佐賀に帰ってきてから歌の道に入り、中央歌壇でも 認められる歌人になっていました。大正14年、高田保馬博士は病となり、 その療養のため帰郷していた頃、佐賀市川久保の中島哀浪氏の家を訪 問しました。歌稿を見せて批評をお願いしたところ、とても親切に批評して もらい、そのとき以来高田保馬博士の歌に対するみかたや態度は急角 度に旋回したというほど大きく影響を受けた中島哀浪氏との出会いでした。

 郷土愛に満ちた歌集3冊『ふるさと』『洛北集』『望郷吟』は、心の奥を打ち 明けた人間味溢れる温かさが息づいており、故郷の風景や人びとのこと、 またふるさとのある母や家族のこと、その他講演や旅に出たときの折々の うたなど、村人の人情と風景、人びとを愛する心が現れていて、どの歌集も 郷里を中心にした記録です。

 1963年(昭和38年)、高田保馬博士は歌人として最高の栄誉『宮中お 歌会』の召人として招かれることになりました。これは長年作歌に親しみ励 んできた者として誠に光栄であると共に有難いことと心から感謝し宮中お歌 会に出席されました。

作 品 紹 介

高田保馬博士の歌は約5千首も残されており、そのどれもが秀歌です。
歌集も「ふるさと」「洛北集」「望郷吟」と3冊出版されています。

  • 小さきは 小さきままに 花咲きぬ 野辺の小草の 安けさを見よ(大正5年)
  • ふる里の 山は懐かし 母の背に 昔ながめし 野火のもゆるも(大正8年)
  • 肥の国の 三日月村は ひしの花 こもの花咲き 母老いませり(大正10年)
  • 吹きながら 寒ぶなの汁 今朝も吸う 人のなさけの 身にはしみつつ(昭和2年)
  • ほがらかに 桑つみ女 うたふなり 蚕の絹は きずとあきらめ(昭和3年)
  • ひざまでの 泥田の中を 行きなやみ 戦いの国は 媼耕す(昭和18年)
  • 生れ出て しちくしの国の 暖かさ 空の光も 人の心も(昭和23年)
  • 雨はれて 今日より麦を 刈り急ぐ 村人たちに 呼びかけにける(昭和23年)
  • 父母の 国に来にけり 天山の 姿ぞうつる 老のまなこに(昭和29年)
  • 白々と 末はみ空の くもに入る 波野の原の ほすすきのむれ(昭和38年)

三日月小学校校庭の歌碑
三日月小学校校庭の歌碑(昭和51年建立)

宮中お歌会で歌われた歌
昭和38年、宮中お歌会で歌われた歌